カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子 塚本邦雄
わたしの見えた風景です。
そもそも「頼信紙」とはどんなものか・・・と検索。
「頼信紙」
カフカの命日は6月3日。
カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子
カフカ忌の無人郵便局 灼けて頼信紙のうすみどりの格子
と、区切れているのだとおもいました。
時代背景はよくわからないのですが、ノスタルジックな空気です。
無人郵便局の窓辺に置いてあった、あるいは吊るしてあったやけて黄ばんだ電報依頼紙の桝目が(原稿用紙の桝目のように)うすみどりの格子が消えそうになって残っている。
いつか存在そのものがきえてしまう、いつかではなく、この瞬間にも。
カフカのたまわく。
「わたしが生涯を費やしたのは、私の生涯を粉砕せんとする自分を 阻止するためだった」
『夢・アフォリズム・詩』 吉田仙太郎 編訳 平凡社 1996
または、
「(書いたものはすべて焼却してくれ、)そうすればぼくが作家だったという証拠がなくなる」
郵便局は書いたものを誰かに送り届けるところ。
電報をだれかに託してだれかにつたえるということ。
書いたものを届けるということは、自分の存在を誰かに届けるということ。
それすらもこの時空では揺るいで、消えてしまいそうであるという不安定な感覚。
書くとはなにか、つたえるとはなにか。
根源的な問いが秘められているように感じられました。
時間が経って、うけとったものたちです。
頼信紙に書く。それは原稿用紙にじぶんの思い・思考そのものをとどめることに等しい。
さらには、限られた文字数にそぎ落として、伝えたい核を閉じ込めるという行為である。
それは限りなく短歌の歌を詠むことに近い。
思考つまり自己を文字としてうすみどりの格子に閉じ込める。
これで時空間が限定されてゆるぎないものになる。
ところが。
その頼信紙がやけている。
やけているということは、ながらく、そう、ものすごくながらく、だれもそれをしてこなかったことの象徴である。
そして、無人郵便局。
書いたところで、伝える手段がない。
郵便局員にも他の客にもみられることがない。
自己完結の世界。
正確に伝達できないもどかしさ。
その現状のメタファ。
カフカ忌。
自己の思考の記録としての書いたものの焼却の要求。
作家つまり表現者としての自己否定。
なんのために表現したのか。
なんのために表現するのか。
表現が正確に自己を表現できているのか。
そしてそれは正確に伝えたい人のもとへとどくのか。
さまざまなことの懐疑と否定。
うすみどりの格子にとじこめられたそぎ落とされた自己。
その存在意義のなさ。
そもそも永らくなにもかきこまれていないではないか、
なにもつたえられてこなかったではないか、という憤りにもちかい思い。
深読みしすぎでしょうか。
いまのわたしのうけとったメッセージです。
(2010年06月06日 23:43)
この歌について
ある方からこのようなメッセージが発せられています。
どうぞどんどんかきこんでいただけましたら幸いです。
月下 桜
なぜ、「カフカ忌」なのか。なぜ「無人郵便局」なのか。なぜ「灼けて」なのか。
以上の私の疑問に関して、知識の、お考えのおありの方、例え一つでもよろしいのでお言葉を賜りたい(たんなる個人的な想い、感想でも結構です)。
関連して、なんなりとお言葉を戴ければありがたい。
追記
塚本邦雄の「カフカ忌……」の歌について
① 自注の所在をご教示ください。
② 荻原裕幸・坂井修一・村木道彦の書き物はお陰で読ませて頂きましたが、このほかにどなたかが書かれたものがありましたら、その所在などご教示ください。
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