題詠の短歌をずっとアップしてきているわけですが、
ひとつの題だけでは決してうまれなかった「ものがたり」が題ふたつを衝突させることで、
化学反応するみたいにものがたりがうまれるおもしろさがあります。
それは、わたしの知っているわたしの世界を超えるものがたりで、
こんな世界も描けるんだ!という発見でもあります。
とくにこの周辺の「蒸」「来世」などはシュールですし、これからの題でもかなりシュールな世界を描いています。
日常生活の情景描写やうごいたこころの描写にとどまることなく、
小説の一部分を描くように短歌という手法で表現できる自分というものは、
おそらく今回の題詠の題たちの衝突がなければ知りえなかった世界だろうとおもいます。
そして、おそらく、これからも、題たちの衝突によって、無限のものがたりをうみだしてゆくことの可能性も感じます。
作品の「よし」「あし」について、ときどき考えます。
古くは仏像、絵画、そして写真の価値判断をもとに短歌も考えます。
いつみても、いいものはいい。
みるときによってかわるものもある。
まわりはいいというがわたしは好まない。または、このような表現の手段を選ばない。
じぶんではみえたままの表現をしている。価値判断をしない。
わたしは随分不勉強なものですから、歴々の和歌も短歌も俳句もよく知らないのです。
それらを学ぶことは、表現の幅を知ることでもあり、
また知ることにより臆することにもなるのではないかとも感じています。
言葉による表現をより繊細にあつかわなければならないようになるのだという意味での臆するです。
そうなることで、現在のような奔放さが失われる怖さもあり、
また一歩先にすすむためには必要なことなのかもしれないという気持ちもあります。
知ることにより、じぶんのなかでの価値判断基準ができてくるのだろうともおもいます。
そして、おそらくこれまでやってきたように、無数の表現をしてゆくなかで、
「わたし」の表現が確立してゆくのだろうともおもうのです。
わたしはわたしをいちばんの理解者でありたいと願っています。
どんなにつたなくても、荒削りであっても、そのときに感じた、表現したい思いを大切にしたいです。
月下 桜
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